心への引っかかりについて、その1

心に引っかかるものが、ある。好きとか嫌いとかじゃなくて、どちらかというと好きなんだけど、なんかあんまりわかんねえな、みたいなものだ。おれの場合は、音楽、映画、小説が多い。

 

もちろん、ここでの引っかかる/引っかからないは、決して価値のある/なしを意味しない。引っかからないけど価値がありそうなものもあるし、引っかかるけど価値がないものも、あるとは思われる。もちろん、基本的に全ての物事に意味はある。

 

例から挙げる。おれの心に引っかかるけど、なんだかよくわからない、という人々を羅列する。言うまでもなく、おれにとって引っかかる、というだけで、君にとってどうかは知らない。

 

- Bob Dylan

- Jim Morrison 

- Lewis Carroll

- 夏目漱石

- 夢野久作

- ニーチェ

 

以上、順不同だ。Dylan と Morrison は普通に好きだし、よく聞く。ただ、あんまりよく理解できている気はしない。おれが気付いていない何かがあるように思う。

 

引っかかるけど、なんだかわかるような気がする人は、次の通りだ。

 

- John Lennon

- 大槻ケンヂ

- 太宰治

- カート・ヴォネガット

 

(以上全て、英語表記とそうでないのは、スペルをおれが覚えているか、そうでないかによる。キャロルだけググった。ごめん)

 

もちろん、わかるような気がする、と言ったときに、全てを理解していると主張するつもりはさらさらない。おれの理解が正しいという自信も何もない。ただ、おれの心に引っかかった理由ないし原因みたいなものはわかるような気がする、ということだ。

 

北野武と、クエンティン・タランティーノも引っかかるけどなんとなく理解できている気がする。もちろん、各人において、これはわかるような気がするけど、あれは全然わかんねえな、みたいなのはある。太宰だと、特に初期の作品群は、全くわからない。中後期は、すごく好きだし、わかっているような気がしている。今でも読み返す。

 

思うに、いつか気付けるんだと思う。たぶん、タイミングの問題だ。

 

引っかかる物事は、折に触れて考える。ヴォネガットが言っていたように記憶しているが、星々の光は、何年、何十年、時には何万年の時間をかけて我々の目に触れる。にも関わらず、我々は、いま、それらの星を、この瞬間に見ている。それらをつなげて、星座がどうこうとか、言っている。考えてみるとひどく乱暴な行為だ。土台、無理がある。

 

しかし、我々はそのように思考している。つまり、昔のことも、少し前のことも、今のことも、今この瞬間に感じ、考え、あーだこーだしている。

 

ジム・モリソンや、漱石も、ニーチェも、いつかわかる/わかったような気になれるんじゃないかと思う。引っかかっるってのは、いつかなんの屈託もなく好きだと言えるようになる、という合図なんだと思っている。

 

人生は、長い。と同時に、短くもある。

 

せっかくなんだから、引っかかる物事を、できうる限り解消できるまでは、生きてやろうと思う。