アクラシア、あるいは意志の弱さについて、その1

一年前に書いたものが下書きとして残っていたので、まま載せる。

 

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アクラシア、という語の認知度がどれほどあるかわからないが、古代ギリシア語で、意志の弱さを指すとされている言葉というのがおれの理解だ。

 

つまり、酒を飲んだら酔っ払って普段ならしないような失敗をしでかしてしまう。しかも明日は早朝から大事なミーティングがある。二日酔いでそれをこなすなんてあってはならない。きょうはぜったい飲まないぞ、と心に決めたその直後、まあ一杯くらいならいいかなと伸ばしたその手を突き動かした(あるいは止めなかった)ものが、アクラシアだ。

 

たぶん、元はソクラテスだのプラトンだので、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」にその記述があったと思う。確か、知とは何か、知るとは何か、とかいう文脈で、その話が出てくる。

 

いわく、酒を飲むと悪い結果をもたらすと知りながら、酒を飲む人間は、「酒を飲むと悪いことが起きる」ということを「本当に知っている」のか、とかそういう問いだ。あまりに根源的すぎる問いは、ともすると滑稽に思える。

 

確か、アリストテレスは、悪いことだと認識しつつ酒を飲む奴は、本当の意味では知ってはいない、という主張をする。未来における損得と、現時点での損得を正しく勘案できていないが故に、誤った判断をしてしまい、結果として今酒を飲むことになると。

 

ここでアリストテレスは、現代においては行動経済学によって立証されている人間の認知の歪みに関する鋭い指摘を行なっているように思える。アリストテレスすごいね。

 

大学時代のおれは、ニコマコス倫理学を読む講義を取っていた。そこでアクラシアの話を聞いて思ったのは、おれについて語られている、ということだった。

当時おれは、朝起きれなかった。というか、30年生きていて、28年ほどは朝起きれなかった。ずっと起きれなかった。

 

意志が弱いから起きれないんだろ、と言われていた。やる気がないから起きれないんだろ。何なら、起きないことを選択してるんだろ、というふうに。

 

当時のおれは、やる気はあるんだけどなー、けど起きれないんだよねー、けどきっと、みんなが言うように、おれがダメなんだろうなー、と思っていた。起きれない、という問題を、意志の弱さから来るものだと解釈していた訳だ。

 

いくばくかが経ち、おれはホテルで仕事をしていた。コロナで自宅で仕事をするのが飽きたから、気分を変えようと、1週間ほどビジネスホテルで仕事をすることにしたのだ。

1週間のホテル仕事を終えた時に感じたのは、背中の痛みと凝りだった。これあいかんと思い、整体に通った。

 

1週間に1度通った。

 

通って3週目くらいに、整体師に今週の体の調子はどうかと問われて気付いたのは、最近寝坊をしていない、ということだ。

 

平均的な人々には伝わりづらいかもしれないが、おれにとって寝坊がない週というのは、ほとんど xxx ぐらいに珍しいことなのだ(xxx に当てはまる語を考えよ)。

 

肩こりだの何だのが、おれの起きれない理由だったらしい。それは、意志の弱さではない。

 

体と精神は極めて密接に繋がっており、どちらか一方が不調をきたすと、他方が不調をきたすようになっていると思われる。

 

意志がどーとか、頭がどーとか、精神がどーとか、言われることがあるけど、まずは体をちゃんとするといいことあるかもしれない、という話。

 

改めて振り返ってみると、確かにおれは意志が弱いかもしれない。