パーフェクトワールド

君は、完全な世界を見たことがあるだろうか?

おれは、ある。

 

そこにはメタファーとしての神がいて、人々はそれをほとんど信仰している。

 

神は時に怒り、鉄槌を下すが、その怒りを翌日に持ち越したりはしない。あるいはするかもしれないが、それは巧みに技巧を凝らして行われる。あるいは、素直に謝ったりもする。なぜならそこは完璧な世界だから。

 

神も時には喧嘩をする。どんな時も完璧な神などいない。なぜならここは完璧な世界だから、どんな人々(神々)にも、弱点は存在する。怒りっぽいのもそうだし、惚れた男にはちょっと弱かったりもする(神は自身の性別として女性を選んだ)。彼が彼女をかまわないと、機嫌が悪かったりもする。完璧な世界にも、これくらいの短所はないといけない。そうじゃないと、パーフェクトじゃない。

 

しかしどうだろう、君がその完全な世界に足を踏み入れると、そこに君の居場所はない。なぜならそこはその世界の中で循環しているからだ。たとえ、君がどんなに風采が上がろうと、どんなに優しかろうと、ここでは何の役にも立たない。

全ては、神を中心に回っている。

周りの人々も君を気にかけない。なぜならその世はパーフェクトだから。

 

やはり、完全な世界などないのかもしれない。ハリウッドにも、レッドウッドにも。

 

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間6ピンの夢

間6ピンが埋まらない夢をよく見る。

 

間6ピンとは麻雀の話で、5,7 というピンズがあった時のカンチャンが埋まらないということである。麻雀においては、リャンメンが良しとされており、例えば、5,6 と持っている時、その待ちは 4,7 となり、二種類の牌で手が進行することになる。5,7 では 6 の一種類でしか手が進まない。

 

つまり、何が言いたいかというと、間6ピンは良い待ちではない、ということだ。

しかも悪いことに、4ピンで頭が出来ている。これではツモ4ピンによるリャンメン変化も望みにくい。

④④⑤⑦

ここにツモ9ピンで、その9ピンをツモ切りするイメージ。

そんな夢をよく見る。

何切るとして、9ピン切りか、あるいは孤立牌、はたまた刻子をほぐすのか、どれが正しいかは微妙なところだと思われるが、おれは万が一のツモ4ピンに備えてこの形にするタイプらしい。

ほんとうは、他の選択肢がいいのかもしれないと思いながら、9ピンをツモ切る。何度見てもそうだ。

 

麻雀をしない人にとってはなんのこっちゃという気がしないでもないが、まあ人生ってそんなもんだよな(そりゃあなんだって人生だ)。

 

一昨年の年末年始は、新婚であった。

昨年末に離婚を切り出されたので、今年もまた一人である。今の勤務先の部署は会社における外様で、遊べる人も少ない。

どうしたって間6ピンを埋めたい人生である。

ishocon2 の github actions 対応をした

ishocon2 の github actions 対応をした。

 

github.com

 

きっかけは、ishocon2 をやっていく中で、docker で動かしていてもホストマシンの影響を受けるような感覚があり、ローカルでの実行だとスコアがぶれてしまうように観測された(実際にホストマシンの影響を受けるのかはよくわからない、おれのやり方が不味かったのかもしれない)ため、安定した環境でのベンチマーク実行環境が欲しかったから。

 

具体的に何をやったかはまあ、PR を見てくれ。

 

本当は技術ブログのはずだったので、エンジニアリングに関することを書いてみたってだけの話。

 

ちなみに、おれの最高スコアは ruby 実装で 367688 だった。もっと頑張りたい。

 

Nについて

Nと出会ったのは、おれの人生で最も荒んでいた時期のひとつだった。

その頃のおれと来たら、出会う女の子すべてとやっていた。もちろん、友達とか、仕事の人とか、そういった人々とはしない。どんな営みにも、ルールはある。おれのそれについてのルールは厳格で、生活圏(それは、何も自宅からの物理的な距離ではなく、心理的なものだ)の被る人々とはしない、というものだった。

おれは、そのルールを、ほとんど10年ほど守っていた。例外は、2,3 あった。

そのようなルールを守りながらやりまくるというのは、もちろん、簡単ではない。おまけに、おれは、風采の上がる方ではない。どちらかというと、変な顔をしている(かつて、スティーブ・ブシェミという俳優が、始終、変な顔の男、と呼ばれている映画があった。いい映画なので、君もいつか見るといい)。

21世紀たる現代においては、うだつの上がらない男にも、女を漁れる場所がある。マッチングアプリというのがそれだ。

おれは、自慢じゃないけど、マッチングアプリというものがうまい。

別に、特別写りのいい写真を載せるとか、気持ちを通わせられるような文章を書けるとか、そういうことではない。とにかく、おれがメッセージを送って、もし彼女の方が返信をくれたなら、そして、飲む約束をとりつけたなら、おれの打率は9割5分を超えていた。ちょっとしたものだ。

 

そんな風にして、我々は出会い、魚をつまみに酒を飲んだ。当然のように、その夜、セックスをした。

彼女とはその後、1ヶ月か2ヶ月くらい、一緒にいた。我々は、ずっとLINEをしていた。おれの方は、ずっと彼女といたいとさえ思っていた。

 

しかし、ある日曜日、彼女はいなくなってしまった。思えば、予感はあったのかもしれない。

その日、彼女とおれは、狭いアパートのベッドでちちくり合って、その後、彼女はおれの膝の上で眠った。膝枕なんて、それまで彼女は求めなかったし、おれとしても、女の子に膝を貸したのは、それが初めてだった。

彼女が、帰る、と言うので、駅まで送る、とおれは言った。

彼女は、そんなことしてくれなくていいよ、と言った。

おれが送りたいから、送らせて欲しい、と、おれは言った。

おれのアパートから、駅に向かうには、まず、向かいの公園を右手に沿って歩き、そこをまっすぐ行った先の通りをさらに右にある坂を登っていく。

その坂に着くと、彼女は言った。ここでいいよ、と。

さすがに二度目の断りなので、おれもそれを受け入れる。

そうか、わかった。おれはここを左に折れて、公園まで散歩をするよ。公園には、犬の散歩がよくあるんだ。それを眺めて、帰ることにする。

こんな夜に犬の散歩をする人なんてあるの?と彼女は訊いた。

よくわからないけれど、たぶん、いる、と、おれは答えた。そのようにして、我々は別れた。そうして、そのようにして、彼女はおれの前から去って行った。翌週の約束に、彼女は現れなかった。

 

しばらくして、ひょんなことから彼女と再会した。おれが友人の数人と飲んでいる所に、彼女が合流することになったのだ。

我々は、居酒屋で隣に座り、机の下ではしっかりと手を握っていた。

 

全ては過ぎ去り、今ではまた、彼女と連絡が取れなくなってしまった。

この世界のどこかで、彼女が幸せであることを祈っている。

できるなら、目一杯の祝福が、彼女にあるといいと思う。彼女は、それに値する人間なのだから。

 

 

31歳になった

ついに、31になった

つぎは、32

 

30に戻ることはないし、17になることもまた等しくない

 

どうしたって、30の次は31らしい

 

だいたい、人の年齢がそんなふうに好き勝手に変わってしまうような、そんな複雑なシステムを、我が国がハンドルできるわけない

(なんだって、国はおれが何歳かを知っておかないといけないのだろう)

 

おれは、この国を、ほとんど憎んでいる

いつからこんなふうになってしまったのだろう

 

あるいは、初めからすべて、こうだったのだろうか

 

結婚をした

結婚をした。新婚というやつである。

嫁・妻・パートナには、おれを発生源としない子が既にあり、つまるところ、おれも父親というものになった。

 

思ってたより遠くに来てしまった感覚はある。

 

しかし、おれを発生源としない子ら(二人いる)は、無邪気に可愛く、賢くもあり、おれはそいつらを愛している。嫁・妻・パートナのこともまた、愛している。というか、むしろ逆で、嫁・妻・パートナのことを愛しているから、その子らのこともまた愛している。

 

今住んでいる家には、義母も一緒に住んでいる。彼女個人のこともまた、愛している。しかし、その愛のきっかけが、嫁・妻・パートナであることは否めない。

 

これは、言ってしまえばリファラル採用である。信頼している人が信頼してる人は、また、信頼できるのだ。友達の友達は友達、みたいなもんだ。

 

おれをリファラル採用してくれたっていいんだぜ?

 

いいやつほど早く死ぬ、その構造について

父方の祖父は早くに死んだ。いいやつだったらしい。「らしい」というのは、面識がないからで、おれが生まれた頃にはすでに亡くなっていた。時たまの法事や親戚の集まりなどで、いい人だったという話だけを聞いていた。ただ、彼らは決まって具体的なエピソードを話してはくれなかった。こんなガキに話しても仕方がないと思ったのか、あるいは。

 

教訓。人のことをいいやつだったと誰かに話すくらいなら、具体的なエピソードも一緒にくれてやるように。

 

母方の祖父はそれなりに生きた。ただ、彼は疎まれていた。みんなで飯を食っていて、自分が食い終わるや否や「さあ、帰るぞ」と、いそいそと帰り支度を始めるような人だった。おれの母親も呆れていて、よく愚痴をこぼしていた。

 

教訓。誰かの悪口をガキに話すと、その人を愛せないガキが育つ。これはフェアじゃないので、控えるように。

 

ビートルズでも、ジョンが一番最初に死んだ。何かのドキュメンタリで見たのだが、彼の自宅に狂気的なファンが不法に侵入して、ジョンがそのファンに対して滔々と諭すシーンがあった。あんな風にしていると、撃たれてもしまう。

お前が見ているおれは、幻想でしかない、そんなものに傾倒せずに自分の人生を生きろ、といったようなことを、そのファンに向かって話していた。考えてみると、キャバ嬢や風俗嬢と、その客たちとの関係に似ている。こんなことを言う嬢は、狂気的客たちの反感を買うことになるだろう。

もちろん、悪いのは狂った客たちだ。真実を伝えるジョンも嬢も、どちらも正しく、優しく、いいやつなのだが、世界にはその優しさを裏切りと捉える人々もいる(もちろん、裏切るも何もハナから相手にされていない)。

 

教訓。人と人との距離感を見誤ってはならない。我々は所詮他人で、お互いにとってメリットがあるという前提の上での関係でしかない。例外は、ほとんどないと言っていい。

 

ジョージがその次に亡くなったのはわかるが、そうなるとリンゴがいまも元気なのが、少し不思議だ。おれの観測する限り、ビートルズの4人の中で最も一般的な意味においていいやつなのが、リンゴである。

ポールが生きているのは、なんとなくわかる。

 

ポールの最初のパートナであったリンダもおそらくいい人で、彼女もまた、早くに亡くなった。おれは彼女をあまり知らないけれど、Wings の楽曲で、ポールのボーカルに合わせてコーラスを歌う彼女の声を聞くと、時々泣きたくなってくる。

 

いいやつほど早く死ぬ、という言葉の構造は実はシンプルだ。もちろん、神様かなんかが、こいつはいいやつだから早くに死なせてやろう、と救いの手を差し伸べているわけではない。神様がいるかどうかはわからないが、いいやつも悪いやつも、等しく死ぬ。

 

いいやつが早く死んでいるように感じられるのは、残された我々がもっとずっと一緒にいたかったからだ。あんないいやつとは、もっとずっと一緒にいたかった。だから、いいやつほど早く死ぬよなと、死んだやつよりほんの少しだけいいやつでない隣人と、肩を落として語らうのだ。おれたちはもっとずっとあいつと一緒にいたかった、と。

 

あるいはもう少しニヒルに捉えると、鬼籍に入った人々のことを誰も悪くは言えない、ということだ。死んでいった奴らについて、悪口を言うのは憚られる。となると、いいことしか言えない。あいつとはなんだかんだ色々あったけど、まあ結局のところ、心根はいいやつだったよな、というところに落としておく。

しかし、無理はそう長く続かない。本当にいいやつだったと思えない人々については、徐々に記憶から消し去られ、語られなくなっていく。時が経つにつれ、いいやつの思い出話ばかりが残る。

 

もちろん、誤魔化しも効かず、色褪せることもないひどいやつ、というのも、少数だが、いる。そのような人々に出会うのはほとんど事故みたいなものだから、黙って受け入れるしかない。フェアじゃないが、人生は元々フェアじゃない。どうにもならないことに、心のリソースを割いてはいけない。

 

おれたちは、いつ死ぬのだろうか。