理解と共感について、その1

理解はできても共感はできない、と思うことがある。おれはそう感じた時に、そう言うのだが、時々ぽかんとされる。ので、それについて書く。

 

理解した、というのはおれは、その話の論理構造はだいたいわかって、その結果そういう主張をする人がいる、というのは認知した、くらいの意味で使う。

 

論理構造とかいう大それた言葉を使ったが、例えば誰かに、お腹空いた、と言われたら、おれはその人がお腹空いた、ということを理解できる。それくらいカジュアルなものでも、理解という言葉を使っても良いように思われる。だいたい、認知した、と同義だが、認知という言葉を日常会話で用いるとギョッとされるので、理解、という言葉を使ってるんだと思う。

 

一方で、共感した、というのは賛成した、とほとんど同義でおれは用いる。そういった意味で、理解よりは踏み込んだ立場の表明ということになる。

 

賛成、という言葉も日常会話ではそれほどカジュアルではないようなので、共感、という語を使っている。

 

あなたがお腹空いたと言い、それに対しておれが共感した、と反応するなら、おれも腹が減っている、ということだ。

 

つまり、理解はできるが共感はできない、ということは、あなたが表明してくれた言明について、だいたいの話は分かったつもりでおるが、それにしてもその最終的な結論みたいなものには、おれは賛成しかねる、ということである。

 

以上のようなことを踏まえた上で、理解はできるが共感はできない、という言葉を使われると、怒り出す人がいるかもしれない。それこそ、理解はできるが共感はできないのだが。

 

もっと優しい世界線はありますか?