星の王子様について、その1

おれは、星の王子様は人生の一面を伝わりやすい形で表している、めちゃくちゃにすごい作品だと思っている。

 

たぶん、お前もわかってるだろうが、改めて星の王子様のどこがやばいか、おれの理解を述べる。

 

おれは特に、キツネと薔薇の話が好きだ。おれの記憶の限りだと、その二つは連続している。

 

確か、キツネと出会い、そいつとの交流の中で、薔薇を想うのだ。

 

キツネは確か、懐く、ということについて話をする。ぼくを懐かせて!というお願いを王子様にするのだ。

 

王子は何のことだかわからない。彼はほとんど何も知らない。懐くってどういうこと?と訊ねる。

 

キツネにも、懐く、ということがどういうことだか明言はできない。とりあえず彼らは明日また会おうという約束をする。

 

次の日、とことこ王子が歩いてキツネに会いに行く。キツネは残念がる。何時に会うか、我々は約束しておくべきだったと。

 

何時に来てくれるか分かっていたら、例えばそれが15時だとしよう、朝起きておれはすでに15時を待ち望んでいる。

 

7時に起きて、15-7を計算する。たぶん、8だ。あと8時間であいつに会える、と思う。もう、わくわくしている。

 

12時になる。昼飯を食べる。また、お前のことを考える。あと、3時間だ。

 

そんな風にして、15時にお前がやってくる。

 

そんな時間の大切さを、キツネは言っている。少なくともおれはそう理解している。いまは引っ越したばかりで星の王子様がダンボールからなかなか出てこないので、記憶の限りの話になってしまった。

 

けど、たとえ原典がそういう話をしていなかったとしたって、おれはそう理解している。

 

あなたもおれを懐かせてくれたら嬉しい。

 

恥ずかしくなってきたから終わる。薔薇の話はまた今度。

おれとお前は違うということについて、その2

その1はこれだ。余裕があったら読んでくれ。

https://mickamy.hatenablog.jp/entry/2021/08/17/225126

 

自分を小さくする、ということについて友達から質問が来たのでそれについて書く。

 

みんなそれぞれ、これを否定されるとすごく悲しい、怒る、嫌だ、という部分があると思う。

 

おれは母方のばあちゃんが大好きで、彼女はもう死んでしまったのだけど、二度と会えないということがすごく悲しい。二度と会えないなんてほとんど信じられないくらいに悲しい。もう一度くらい会えたっていいと思う。

 

だから、便宜的に、おれが死んだ時にまたばあちゃんに会えると信じて生きている。あくまで、便宜的にそう信じているのだ。

 

死んだ時にばあちゃんに会えたとして、あんた頑張ったね、私は嬉しいよ、と言ってもらいたい。だから、おれなりに頑張って生きてるつもりだ。

 

おれだってさすがに、本当には信じていない。科学的に死後の世界の立証が為されていない、という認識は持ってるし、その立証が為される可能性は極めて低い、あるいはほとんどないとは思っている。

 

ただ、そう信じて生きたっていいだろ?

おれがそう信じて生きることで、お前に何か迷惑をかけたか?

 

それを否定された時、おれはすごく怒る。すごく悲しくなる。やるせなくなる。というか、一度だけあって、その時にそんな気持ちになった。おれはよく人から不機嫌だと思われたり、怒ってると認識されることがあるのだが(そこについては改善の余地があるので、直していきたい)、30年近く生きていて、本当に悲しくつらく嫌で怒ったのはその一度限りだ。

 

それが、おれの否定されると嫌な部分だ。そこが、最初に述べた、自分を小さくできる、と表現した自分だ。

 

それくらいなんだよ、否定されて嫌なのは。そこ以外は本当にどうだっていい。

 

な?もっと自分を小さくできそうじゃないか?

 

つまり、本当に大事なことはいくらもない、ということだと思う。

 

ばあちゃんのことを思うと悲しくなるのでもう終わる。

 

おれとお前は違うということについて、その1

おれとお前は違う。おそらく何かは共有できているのだろうが、それにしたって全く違う。おれとお前は繋がってはいない。だからして、おれが考えることに対して、即座にお前が同意する訳ないと思っているし、逆もまた然りだ。

 

おれとお前が違う、という理解を押し進めると、お前がおれに対して侮蔑の言葉を吐いたとしたって、おれは何にも感じない、というところに行き着くと思う。

 

もちろんおれは、それについて考える。そうか、こいつはおれのしたことに対してこう感じた/考えたのか、と我が身を振り返る。そこで、自らの行動を変えるべきだという結論を得たり、これは謝るべきだ、と思ったりするかもしれない。そうなったら、行動を変えたり、謝ったりする。

 

しかし、たったそれだけのことだ。別におれについての否定の言葉を吐かれたって、おれはなんとも思わない。多少は悲しくなるかもしれない。

 

けど、おれとお前が違うということはそういうことだと思う。

 

みんな自分が広すぎるんだよ。もうちょっと自分を小さくできると思っていて、そうできた方が耐障害性が高いと思って生きている。

 

おれとお前が違う、ということはそういうことだと思って生きている。

 

けどきっとお前は違うんだろうな。

 

その2も書いた。よかったら読んでくれ。

https://mickamy.hatenablog.jp/entry/2021/08/17/232407

 

言語について、その1

あなたは、我々がちゃんと言語を共有できていると信じて生きているか?

おれはその可能性は極めて低いと思っている。だからおれはさまざま言葉を尽くして伝えようとしている。だが、世の多くの人々は、言語を共有できていると信じて生きてるように見受けられる。

今日はそのことについて書く。

 

人と話してて、あ、この人はこういう意味でこの言葉を使っていたんだ、という風に突然気付いた経験はないだろうか?

おれは、ある。

そしてそれはたまたま気付けただけで、まだ気付けていない意味のミスマッチがない保証はどこにもない。

ヒトの言語の習得方法からして、極めて個人的な経験をもとにそれを学ぶ訳だ。国語の授業は小学校からだし、みんな通ってる学校は違う。友達も違えば、家族も違う。それらが違うと日常会話が違う。わかりやすい例として、各地方における方言があると思う。

 

そんな違う道を歩んで学んだ言語体系を、昨日今日出会ったおれとあなたが共有できている訳がないと考える。

 

我々はそれぞれ異なる言語ゲームをプレイしていて、その中での規則が共有できていることは極めて稀である、ということに対して、もっと意識的になるべきだとおれは思う。

 

だから、言葉を尽くすべきなのだ。on the same page という表現が英語にはあるが、重要な場面ではそれを確認することが極めて大事だと思いながら生きている。

 

だから正直に何でも言うべきだとおれは思ってるんだけど、たぶんそうじゃないんだよな?

 

おれが知らない世の真実を知ってたら、今度教えてくれよな。

 

考えることについて、その1

おれは、きちんとした知性を持っていないかもしれないけど、少なくとも考えることはやめたくないと思っている。

 

もしかしたら、それは大変な悲劇かもしれない。上等とは言えない知性を働かせて、たくさん考えてしまうわけである。どちらかというと喜劇か。

 

ただ、それ以外おれに何ができよう。考えてはいるんだよ、いろいろ。けど、馬鹿だから、考えてもわからないことばかりだ。

 

世の中、目開き100人、メクラ100人、あとの800人は馬鹿らしい。

 

おれは馬鹿だったとしても、目が開いた馬鹿でありたいと思う。世界からしたら迷惑な話だ。

 

タバコ吸い終わったので終わる。

 

視点の転換について、その1

この間、友達に、おれの愛が余っているという話をした。別におれは口説いていた訳ではない。余ってるから余ってるという話をして、おれの愛の向き先を知っていたら教えてほしい、と言った。その時の彼女の返しが面白かったので、その話をする。

 

前に、愛が余っている話を書いた。これだ。

https://mickamy.hatenablog.jp/entry/2021/07/29/144654

 

彼女はこれを読んでくれて、そこそこ面白いと言ってくれた。調子に乗ったおれは、これについて話す。愛が余っているから向き先を探している、という話だ。

 

犬の散歩をしながら話した。好き勝手に生きてるオスの豆柴だ。おれはそいつのことを大好きだ。これは余談である。

 

さっきから言ってる、愛が余ってるって女子高生風にいうと何?と彼女は言った。おれはそれはすごいことだと思う。おれにない発想だからだ。

 

女子高生風に言うと、たぶん、おれの気持ちは、あー、彼氏欲しい、だと思った。別に女子高生を馬鹿にしてるつもりもないし、実際女子高生は頭いいとさえ思っているのだが、そのような視点の転換はすごく大事なことだと思った。

 

お前も、何かに悩んでるかもしれないけど、それ女子高生風に言い直してみな?

 

なんかきっとあるぜ。

人生について、その1

おれと違うゲームをしているような人を時に見かける。不思議で仕方ないから、おれが人生をどういうゲームと捉えて生きているかについて書く。ここでのゲームとはもちろん、テレビゲームといったわけではなく、ゲーム理論などの文脈で使われる意味でのゲームだ。

 

おれは、人生とは自分の幸福を最大化するゲームだと理解している。自己中心的と言われたら、それまでだ。ただ、おれは世界を良くしたいとも思っている。その二つが両立可能であることを理解してもらえないことがある。

 

つまり、おれは世界を良くすることに少しでも寄与できる自分を感じると、嬉しいのだ。世界を良くする、と言った時に、もちろん、さまざまなあり方がある。おれは、おれが良いと思う方向に世界を良くしたいと思う。

 

おれにもし、何かしら人より得意なことがあるのなら、それを世界のために使いたいと思う。だから、おれは仕事をしている。

 

おれが得意で好きなことをすることで、世界の幸福が増大するなら、そんなにいいことはない。

 

お前はどう思って生きてる?